●採掘場からの搬出
・手堀り時代の搬出
手堀り時代は、1本が150Kgもある石を「背負子」を使い、1人で1本1本背負って、
採掘場から運び出すのは、「小出し」と呼ばれる職人たちの仕事でした。
【搬出道具・機械類】
・背負子 ・木橇(きぞり)・滑り台 ・車地(かぐらさん)・ハンド・ウインチ ・木組巻上げ機
・機械化後の搬出
現在では、電動機械の発達にともない、モーター利用のウインチ索道により、
採掘場から巻上げられ運び出されています。
【搬出道具・機械類】
・モーター・ウインチ ・一輪車
●一般輸送の変遷
・木ぞり(修羅)と筏
古墳時代や奈良時代のころ、陸路の輸送には木ぞりが、水路の輸送には筏が使れたと思われます。
大阪の藤井寺市にある古墳の濠底からは、修羅とテコと考えられる丸太が発掘されたことがあります。
・船
明治時代以前、大谷石はほとんどが宇都宮の周辺で消費され、遠方に運ばれるのはわずかでした。
江戸時代中頃には、隅田川沿いに大谷石を扱う問屋があったと言われ、江戸には鬼怒川の水運によって運ばれました。
・馬
馬が主要な輸送機関であった江戸時代以前から明治時代にかけては、石も馬の背中で運ばれました。
米なら2俵、大谷石なら5寸×1尺×3尺の大きさの「五十石」2本が、馬一頭の背中で運ぶことが
出来る量であり、これを「一駄」(いちだ)、あるいは「いちだん」と言いました。
・馬車
明治時代に馬車が使われるようになると、より遠くに石を運ぶことが出来るようになり、販路は拡大しました。
馬車ならば「18駄」(五十石を36本)、すなわち馬の18頭分を運べたからです。
●人車(トロ)軌道と鉄道
・1896年(明治29年)
大谷石輸送のため宇都宮軌道運輸(株)という人車軌道が石材採掘業者たちの出資で設立されました。
・1897年(明治30年)
設立の翌年、宇都宮市西原町(現在の関東財務局)と城山村荒針(現在の石材組合)を結ぶ6.3Kmの軌道が完成しました。
軌間は610mm、開通当時客車20両、貨車50両を保有し営業を開始しました。
客車の大きさは、長さ1.8m、幅1.1m、重量360Kg、定員6人。貨車は長さ1.5m、幅0.9m、重量280Kgの
小型のもので、いずれも人間が2人がかりで後から押して人や石を運ぶものでした。この貨車では、石は12駄(五十石を24本)
積んで運ぶことが出来ました。
・1897年(明治30年)
軌道は荒針から二方向に分岐し、一方は瓦作まで、もう一方は大谷停車場を経て立岩まで延長されました。
・1900年(明治33年)
軌道は、西原町から材木町(現在の幸仁会病院)まで延長され、石材の搬出量は増加しました。
・1903年(明治36年)
鉄道と結合するために西原町から国鉄鶴田駅まで軌道が作られました。
・1906年(明治39年)
宇都宮軌道運輸(株)は宇都宮石材軌道(株)と改称し、同業の野州人車鉄道石材(株)の軌道を譲り受けた。
この時点で軌道の合計は26.8Kmに及びました。
・1915年(大正 4年)
国鉄鶴田駅と荒針間に鉄道が開通し、蒸気機関車で石材の輸送が行われるようになりました。
・1924年(大正13年)
材木町と鶴田間の人車客車を廃止する。
・1928年(昭和 3年)
材木町と大谷停車場間の人車客車がガソリン客車となる。
・1929年(昭和 4年)
鉄道が荒針から立岩まで延長される。
・1931年(昭和 6年)
東武宇都宮線の開通に先立ち、東武鉄道(株)は宇都宮石材軌道(株)を合併し、国鉄鶴田駅と接続していた
宇都宮石材軌道の鉄道線を、東武西川田駅にも接続する。
・1932年(昭和 7年)
西原町と鶴田間の人車軌道を廃止する。
・1933年(昭和 8年)
西原町と材木町間の人車軌道を廃止する。
・1940年(昭和15年)
西原町と荒針間の人車軌道を廃止する。
・1952年(昭和27年)
残っていた軌道線を全廃する。鉄道も国鉄鶴田駅と新鶴田駅間の連絡線を撤去する。
・1962年(昭和37年)
荒針と立岩間の鉄道が休線する。
・1964年(昭和39年)
最後まで残っていた東武西川田駅と荒針間も含めて鉄道は廃止される。
●トラック
1930年代になると、石材の輸送は少しづつ自動車にとって変わるようになり、1960年代ともなると、
ほとんどトラック輸送が中心になりました。大谷石は、積み替えする時に石の角が欠けたりして傷むため、
積み替え回数の少ないトラック輸送が一般的になった理由の一つです。