大谷石採掘の機械化が考えられ、実用化されるようになったのは、1952年(昭和27年)に石材協同組合内に
「機械化研究会」が設けられ、機械が試作されたのが最初です。 戦時中も県の助成で研究したことがありましたが、
昭和20年代は失業者も多く、労働賃金も安かったために実用化されませんでした。
しかし、1952年頃になると人件費が高くなり(当時は石の価格の70%が人件費でした)、
石材価格の上昇は避けられず、生産性向上のために機械化の研究が本格的に始められたのです。
1954年(昭和29年)10月フランス製チェーンソー裁断機PPK125を購入し、
これをもとに国と県の補助金を受けて、2台の試作機を完成させました。
この一号機は採掘に使用するものではなく、ツルハシで採掘された大谷石を板状に切り、
表面を化粧削りするためのもので、1955年(昭和30年)8月、三豊製作所宇都宮工場で公開運転が行われました。
採掘機は、1957年(昭和32年)にオートメーション採掘第一号機が完成し、実用化に成功しました。
大谷の全採掘場が機械化されたのは、1960年(昭和35年)頃で、手堀り時代の1955年の年間生産量が
24万トンなのに対し、機械化された1960年は45万トンと、約2倍近くにも増産されました。
現在では、機械化も非常に進歩し、垣根掘り、平場掘り、裁断、化粧削りなど、採掘や色々な加工が機械で出来るようになりました。
●機械の変遷
丸のこ式平場採掘機 1960年から1970年頃まで