1998年4月24日(金)~5月10日(日)
見えないもの
いつも思うのですが、彫刻はすでに創り尽くされているのではないかと。
新しい価値に基づいた新しい創造の余地はあるのかなーと。
先人達の仕事の大きさ、深さ、数の多さに触れると圧倒されてしまいます。
ある日、僕はふと考えました。
人間の目には見えないけれど存在するものは無限にあるのではと。
でも現実の生活の中では、見えるものに頼りながら生きています。
いや、見えるものを絶対化して生きているかもしれません。
地球から見た宇宙、宇宙から見た地球と
自分の立場を変えて考えてみました。
物理学では、アインシュタインが相対性理論を創造しました。
彫刻家の中では、シュールレアリズムの人々、
特にジャコメティは人間存在を相対化した最初の人ではないでしょうか。
存在から始まるのではなく、空間の中にパックされた存在、
空間を無限大に拡げると存在は無限小に近づく。
その中に存在することの不確実さ、
人間存在の不安といったものを感じるのです。
彼の仕事は、近代と現代を結ぶ一本の橋のように思えます。
勿論多くの橋の一本でしょうが・・・。
どんな物質も原子から成り立っています。
僕は、そこに隙間が在るように感じます。
そんな隙間を流れる風を想像するとワクワクします。
空間の中の存在、その存在を通過する風。
それは、存在するものの内包する時の流れなのでしょうか?
無と有との関わりにとっても興味をひかれます。
老子の中にこんな事が書いてありました。
「有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。」
三十本の輻が一つの轂(車輪の中心の丸い木)に集まって[車輪ができて]いる。
その轂の中心のなにもないところで、車輪としてのはたらきがある。
粘土をこねてそれで器物をつくる。
その器物の中心のなにもないところで、器物としてのはたらきがある。
戸口や窓をあけてそうして家を造る。
その家の中心のなにもないところで、家としてのはたらきがある。
だから、なにかがあることによって利益がもたらされるのは、
なにもないことが[その根本で]はたらきをとげているからだ。
さてさて、林立する彫刻の隙間を通って広場に出ましょう。
村上勝美